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yuuの一人芝居

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小説 母の痣1 新連載

母の痣           2016/7/8

                 今田 東

  誰に出すでもなく書いているのです。今まで生きてきて何かを感じてそれを心で浄化して書いているのです。
心に残っている事を、母親との事を、その思い出を書いてみたいと思う。それは私自身のためとして…。

 子供のころ西に沈む太陽はなぜあんなに大きく見えたのか、もとだちと遊んでいても母の帰る時間には表の道に出てじっと待っていた。そこには何か特別な時間があったと記憶している。まだ舗装をしていなかった道路には時折土煙を上げてトラックが通り過ぎて行った。道路が突き当たったところには宇野線の大元駅がありその構内に大きな銀杏がそびえていて雀たちの巣になっていた。黄金に光る銀杏はまるで神を宿した神木の趣を感じた。西陽に照らされて、銀杏の落葉は世の中を救うための献花のように舞って降りてきていたように見えた。
その銀杏は私には忘れられないものになっていった、今もその風景に懐かしさとときめきを感じている。
 母は自転車がのれなくておして帰った。その荷台には木端が積まれていた。戦後父が連帯保証人になったところが倒産し総ての財産をなくしていた。母は父の知り合いのところへ行って電気のこぎりの前で寸法通りに製材する仕事をしていた。そこは茹でたうどんを入れる箱を作っていた。その切れ端を集めて持って帰り風呂と食事のための燃料にしたのだった。母の割烹着は汚れて傷みが激しかった。頭に手ぬぐいを被り手で額の汗をぬぐいながらにこにこと私を見ていた。
 そんな夢をよく見るようになった。母への郷愁か、忘れてはいけない絆であった。
 丸亀藩の漢学者の血を引く母はどのような人生を過ごしたのか…。
 私の記憶をたどりながら少し書いてみたい。それは鎮魂のためではなく私の母への挽歌としてである。

 今、私は七十四歳になって生きてきた道のりを思い浮かべることが多くなっている。
 今まで色々な思いを重ねてきたが、その心には総て母の影があった事を感じている。私が三十一の時に母は夭折した。四十三年前と言う事になる。父はそれより二年前に旅立っているから四十五年前と言う事になる。早い別れだったと思う。父と母が生きた年よりも長く生きていることになる。この歳になって歩いた時の流れを振り返る時、もっと長く生きていてくれたら親孝行が出来たのにと言う思いがわいてくる。もっと一緒に暮らしたかった。父が好きだった映画を見に行けたかも知れない。母が何を好んでいたのかを知らない自分がいて戸惑う事だろうと思う。
 親子の別れはいかなるときにも必然である。どちらが先に行くとしても避けられないことなのだ。それを思う時に人のはかなさを感じるが、その別れは私への自立を促すものであることを今は感じる。人は別れによって自立するものなのだ。父と母は私へ次なる血の継承を望んでいたに違いない。それが生物としての本能であるからである。

 母は丸亀藩の漢学者の大森の血を引いている。その母が維新の後にどんな生活をしていたのかは調べてないので分からない。母の先祖墓地に行くと中央に五メートルほどの石塔が立っていた。風雪にさらされていたが威光を感じさせるものだった。それが母のルーツで一番近いものとしてそこにあった。
 讃岐平野の真ん中を流れる土器川の東に父の屋敷があり、西に母の住まいがあった。この川は高松藩と丸亀藩の藩境として流れている水なし川である。また、池が沢山点在していることでも知られている。
 ここで、父親の先祖に触れておこう。讃岐平野の真ん中に飯山と言う、俗に言う讃岐富士がこんもりとその雄姿を現わしている。其の南に法軍寺と言う地名の場所があり古くから栄えた村がある。其の一帯の大庄屋の次男が創術の免許皆伝を持っているところから高松藩の指南として認められ登城することになった、が、身分が庄屋でも武士の家臣を教えると言う事には抵抗があるとして、家老職の蓮井家へ養子に入ることになった。吉馴の本家の北に家を構え蓮井と名乗り指南の日には小者に手綱を引かれ馬上での登城になった。そんな言われは残っていた。
 戦後、母に連れられて母の里に赴いたが随所にきれいな流れがあって農作物の収穫が出来たであろうことを感じ取らせてくれた。
 丸亀藩が維新でなくなり県になった頃から母の家はそこに住んで農家になったのだろう。末っ子の母が十四の時に父と婚儀をしている。歳としてはそのころでは早いというものではなく、月経を過ぎると立派な女として何時でも嫁いでいたから、母もその年になり嫁入りをしていたのだ。
 父の家も庄屋の吉馴の次男が高松藩の家老のところへ養子に記入り家臣たちに槍術を教えていた。高松藩も維新を経てどのように変貌していったのかくわしくは知らない。一家離散、とまではいかないまでも故郷を捨てて岡山は早島に長男は入り歯医者として生業をしていた。其の子が澤田に婿養子として入り後に澤田虚舟とし書家になり岡山書道学院を作っている。父の従兄なのである。
 幼い頃母のその当時の写真を見たことがあるが今で言う中学生の容貌であった。
 父は神戸の外国語専門学校へ行ってそこを終えての時期に婚儀をしたものと思われる。当時祖父は岡山の福岡に在し農機具の研究開発をしていたので帰郷して式は行われたものと思もわれる。
 そのあと・・・。私の記憶があいまいに交錯する。長男で戦死した兄が何処で生まれたのか、二男で母の兄の養子としてブラジルへわたった兄は何処で生まれたのか、覚えていないと言うより聞かされていないのだ。其の空白の後すぐに神戸は三宮の駅前に蓮井商会と言う貿易の会社が創られ海外に支店が創られるほどの成功話になる。その辺りから長女晶子が語った話が思い返されるのだ。三宮の会社の写真はセピア色の物は見た記憶がある。
 父が語ったことの話の中に米騒動の話が出てくるが其の後のものであろう。動物園に頼まれて沢山の動物がいたと言う。また、缶詰も中に何も入っていないものが売られていたという事だ。其の貿易会社も父の弟が支店長をしていた大連支店の社員による使い込みで倒産したという事を聞いた。
 そのころの母は奥様として立ち振る舞いをしていたと言う。が、母が私に少しくぐもった顔で言った事は、父は女遊びに行く時には英語で交渉したらしい。母には英語は分からなかったので煙に巻かれたと言っていたのを幼い頃に聞かされた。
 父の仕事により母の生き方、運命は変わっていった。
 倒産した後、父は岡山に帰り佐伯組、阪神築港などに務めて児島湾の開墾や飛行場の建設などに関わり軍属として働いていた。
 そのころ祖父は父の母と離婚して後妻を貰っている。其の義母に母は虐め抜かれたらしく、実父の病気見舞いにも気兼ねをしていけなかったとか嘆いていた。
 そのころは岡山市に居住していた。大元駅の前あたりに広大な地所を持ち蓮井組を名乗り土木建築の仕事をしていた。戦争中は興除村に疎開をしていた。
 母は七転八起きの父と運命を共にして弄ばれていたことになる。


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